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新世紀進歩的羽扇子音楽/DJ TECHNORCH
Sound / DJ TECHNORCH
私には夢がなかった

私が初めてbeatmaniaに参加したのは2007年。私はbeatmaniaの影響で音楽を聴き始め、音楽を作り始めるようになったが、別にbeatmaniaに参加することを夢見て音楽をやっていた訳ではない。誰がbeatmaniaをやりながらbeatmaniaに参加することを考えるだろう。最近ではSOUND VOLTEXがあるので大分事情が違うのかもしれないが、ともかく私がbeatmania・DDRに熱中していた99年00年はそのような思念が入る余地がない状況だった。

私は2007年、突然beatmaniaに2曲収録されることになった。その時の感動は想像を絶するものだった。その頃の私の目標は、何か商業の仕事を一つか二つ請けることだった。それは凄く憧れることだった。私の目標はどんどん変わる。少し前はとにかくCDが世の人の前に流通していればそれでよかったし、それはとんでもなく大きい目標に見えたが、後になってみれば案外それはすぐに叶えられる目標だと知った。全ては後になってみればというものであるが、それは常に直前になるまで欠片も分からないものなのだ。

2007年当時の私の最も大きな目標は、とにかく普通の企業に就職することだった。私は浪人していたし留年もしていたから年齢も重ね、かなり不利な就職活動をしていた。もちろん留年するぐらいだから学業成績も特に悪かった。

私の夢はあったのかもしれない

私はとにかく普通の人間になりたかった。私はとにかく目立たず、普通に、ありきたりの人生が欲しかった。政府が考える、子供一人(二人だったか?)、妻一人(これは間違えていないはずだ)、郊外に戸建てを一つ持つサラリーマン。このような普通を得ることが如何に難しいかが叫ばれる昨今だが、とにかく私はそのような普通を夢見ていた。

普通になりたい

理系大学だったが技術職は向かないと思った。幾つかの「クリエイティブな」仕事からは「アルバイトからどうだい?」と誘われたが、普通を求める私にはありえない選択だった(今考えてみれば当たり前の要求だし、悪くない誘いだった)。

念を押すとbeatmania参加は夢を遥かに超えた状況だった。甲子園に一度も出たことがない高校野球部に入部後、スタメンになれるよう自分なりに一生懸命投球練習をしていたら、いきなりメジャーリーグの参加が確定したような、とにかくそういった状況だった、少なくとも本人的には。夢ではない、夢を遥かに超えた激動だ。中学高校浪人の6年7年、孤独の中ほぼ無価値の時間を浪費していたつもりでいた私に、その激動は全ての意味を与えた。だが逆に言えばそれが全てだった。

就活は残酷なシステムだ。あなたの長所はなんですか?あなたの実績はなんですか?普通を熱望する私には、私が4年間習ってきた破壊力学とは全く関係がないKAMAITACHIとMETALLIC MINDだけが残された。バイトリーダーや学園祭の企画発起人のような普通の実績はなく、企業にどのように役に立つのかよくわからないこの楽曲実績を、普通になることを目標に生きる私にはどう活用してよいのか皆目見当がつかなかった。きっとプレゼンテーション能力に長ける人ならこの楽曲実績も、金属メーカーに対して何らかの効果的なアピールをする方法を見つけたかも知れないが、とにかく私は普通にこだわり切り、なんだかよくわからないモゴモゴとした自己PRと当然の不合格が続いた。今思えば、面接がどうだという問題ではなく、最終的に私は大学MAX8年間の在籍となった。どうやら私は元々普通ではなかったようだ。

私には夢がなかった

太平洋横断しようとしていたら気が付くと月面についていた。私は月面ですることを失っていた。憧れの人に会い、憧れの曲をリミックスした。もう何も望むものがない。

だが、何を望むものがなくても腹は減り、歳はとるのだ。別に月面についたことを自慢している訳でもなく、だったら次は月面を網羅してやろうとか、火星に行ってやろうとか、人によっては太陽系外に足を運んでいこうとか、そういう風に思える人は沢山いるのだ。だが私にはすることがもう無い。私は冬眠することとなった。

数年後、沢山の人にお世話になった所で私は再び歩き出すこととなった。月面が、火星が、というのは無理だ。とりあえず懐中電灯で照らした足先数メートルを考えよう。

私は2007年頃、自分の楽曲は世界で一つだけの、代わりのきかない音楽でなければならないと思っていた。何故か、私についに友達が出来たのは、殆ど全て音楽がつないだ友好関係だった。同時に、CDをリリースするようになり生まれて初めてお客さん、という人々に音楽を通じて必要とされるようになった。つまりはそれは、必要とされる音楽を作らなければまた私は孤独の世界に戻されてしまうということだ。だから私の音楽は人に必要とされ、かつ、私でなければ出来ない音楽を作る必要があると思っていた。これはとても苦しいことだ。私は常に、世界のまだ誰も作っていない音楽を作っていないといけないということだ。

だがそれは間違いだった。月面に辿り着いたことをおごっていないと言ったが、そう考えるならば、私以外の誰にも作れない世界で一つだけの音楽を作っている、それこそがおごりであり、間違いであった。愚かしくも、それに気がつくまで音楽を始めて5年はかかってしまった。しかし少なくともその5年間、私は私にしか作れない音楽を作っていると誤解していた。つまりそれは二度と同じ音楽を作ってはいけないということだ。常に自己新記録を更新している必要がある。そう思いながら音楽を作るのはとてもつらいことだった。

その誤りに気がついてからはなんだか音楽が楽しくなってきた。足先数メートルで物事を考えればいいのだ。あの地獄のような自己新記録更新の連打に比べれば遥かに気楽な目標となってきた。

私には夢はなかった

しかし、目の前の目標を少しずつ更新する楽しみは得ることが出来た。世界に一つだけではない、ありきたりだが、私の足先数メートルにある私の音楽。2007年までの私の楽曲の一部には日本語楽曲名が含まれるようになっていたが、足先数メートルを何度も前進するうちに、それこそが私の快感の一つであることに気がついた。最初は日本語の楽曲名を散りばめ、次に日本語の語りを含め、最終的に日本語ボーカルが入るようになり、ビートメイキングは「普通」のハードコアのそれとはやや異なるものになった。

気が付くと私の周りは懐中電灯などはもういらない、太陽に照らされた大平原になっていた。足先数メートルだけを目標に前進していたが、向こう岸が、空が見えた。私の目標は遥かに大きなものとなった。数メートルという単位ではない、視界の届く限りどこでも跳躍出来る、大きな世界そのものが目標となっていた。

私の楽曲には殆ど全て日本語が入るようになった。自己新記録を常に更新し続ける地獄は終わりを告げ、記録更新のためではない、自発的なアイデアが溢れるようになった。音作りのアイデアは勿論だが、次はこんな楽曲名にしよう、次はこんな言葉を入れてやろうと、私は、音楽が楽しくて仕方なくなった。結果、私の音楽は、「普通」のハードコアとしてはやや異形の、なんだかよくわからない形態の音楽になった。私の目標は月面を、火星を、太陽系外を捉え、今こうして再び月面に戻っている。

目標?それは夢というのではないだろうか?

気が付くと私の生活は夢で溢れかえっていた。夢は状況に応じて常に高速で形を変え続ける。一番最初に念じた夢がそのまま叶わなくてもいいのだ。夢のために行動を続けると、気が付くと夢は変わっているのだ、その夢のために行動すれば、また夢は変わっている。気が付くと昔夢だと思っていたそれは遥か後方に通過し、今では夢でもなんでもなくなっているかもしれない、その時はまた遥か先の夢があるのだ。

それは夢がかなっているということなのではないだろうか?

夢のための行動とは、学生生活の全てをひとりぼっちでゲームセンターに通うことかもしれない。意味があるかどうかはその時にはわからないのだ。だから、私はこう考える。「無意味な時間なんて一秒足りとも存在しないのだ。私達の全ての時間に必ず意味があり、夢は、願いは、叶うのだ。」

「天上天下」は私の夢が沢山つまった楽曲です。2007年からの私の楽曲に馴染みがある方には、言葉の面ではギョッとするような変貌ぶりを感じるかもしれません。ですが、今語ったように、これは私が足先数メートルを進み続け、私を掴んだ結果の姿です。私の夢は醜いでしょうか。DJ TECHNORCHの姿焼きは確かにちょっと見た目は変かもしれませんが、中に詰まった「夢」は食べなれるとなかなか美味なのですよ?思い切ってガブっといってみてください。

私には夢がある